おじゃま虫
定住する必要はありません。と言うか、暫くそこにいるだけでいいのです。そうしますと、何かしらの文化を深く整えることになります。お邪魔ながらも、「沢山食べることが出来て嬉しい」と心から思えるのです。
話が飛びます。
「褒められたい、出来れば褒められて成長したい」、人間そう考えることは当然です。小生もまた、外科研修3年が終わるまではそんな毎日でありました。しかし昨今はいみじくも、そう願う若者はかなり少ない気がします。「殿、お戯れを、おからかいを…」、小生は今や、そのような若手からの大和言葉風の逆目線に惑わされているのであります。
さて、その要因について色々と考察させて頂きました。
結果、若手が最も忌み嫌うもの、どうやらそれは、「褒められることが少ないから若手は育たない、仕事へのモチも減ってしまう、直ぐに辞めてしまう、だから褒め遣わして進ぜよう」、そんな大きなお世話を公言する上からドヤ顔の上司の横顔らしいのです。逞しいっちゃあ逞しいことですね。
でも確かにそうです。
医療には幸せにも、一生を掛けて積むべき大きな陰徳があるのに、それをその都度褒め言葉に置き換えて蔑ろにしようとする…、それはまるでジェンガ風の積み木抜き、もしくはネガティブな言霊、いやはや何ともでございますね。それでは無論、医療者としての遺伝子は反応するはずもなく、ましてや、いのちが伝わるとも思えません。平等、自由、権利の本来の意味までをも履き違えてしまいそうです。外科医的に申せば、心が納得しない褒め言葉では、暫く気分良く手術はできても、決して強い手術は生まれない…、つまり、新たな思考と輝く妄想がそこで一時停止するというということであります。
ところで、最近とても不思議なことが度々にありましてね。
小説を読んでいても、「ああ、自分は褒められている」と感じるのです。そこに理屈はありません。
文章には他人の勝手な思い入れや考えが沢山入っていますから、その中に今までの自分の思い出が混じり合うことで、心が丸裸になってしまうのでしょうか。誠に烏滸がましいのですが、これこそが今まで重ねてきた陰徳の一時精算なのかと、何とも心地良く思うのです。もちろん、この時期の精算が適切かどうかは別問題ですよ。でも一旦そう感じてしまいますと、心には何かまた新たな形が生まれそう、そんな愉しさを覚えるのです。
ああそうか、この褒められ感は、どこかで申した『突き抜け感』と同等の感覚ですね。
それは、「やったことが無いことでも何だかやれそうな自信が持てるというもの」、他人の文章を観ることで、自分のこころの中にあるものを心の底から認めることができる、すると今までモノマネばかりしていた自分に新たな個性が湧いてくる、つまり、朧気ながらも真実が見え始めるということ、この感覚が褒められ感であり、日頃は気付かない陰徳への定期的なご褒美とも思えるのであります。もちろん、これは手術人だけのものではなさそうです。徳の積み木、そして繋がりとはそういうものかもしれません。(当ブログ 文化 その十五 若手の生態⑦ 教育-五 突き抜け感 参照)
それにしても当たり前のことながら、スタート時点で向きが違いますと結末って大きく異なってしまうものですね。結論を申せば、心の形が相当に変化してしまいます。
上司として唯一注意すべきことは、褒めること、褒められることがどの程度のマイナスを生んでいるのかを知るだけでありましょう。上司のお節介、お邪魔虫とは、会話を終結させるため、もしくは話をまとめようとするために褒め言葉を用いないだけ、そしてWell-beingの解釈を間違わないだけ…、そんなもので十分です。褒めるということは、取り敢えずその場だけを収める手段にすぎないこともあるのですから…。
教育ってものは、「アナタ自身の積極的な気持ちを奮い起こして、もう少〜しコッチ側に寄って来ようとしてくれる? 私たち上司だけでは無理があるから…。もちろんそうよ、それはアナタに時間を早く感じさせようとしているだけ、ちゃんと制限速度は守っているからね。徳というものは外にあるものではないし、出すものでもない、それに付随する時間とともにアナタ自身の心の中にあるのよ。だから、まだまだ褒めそやすことはしない、でも美味しく楽しませてあげる…」、なんて訳わからんことをボヤく程度で具合良く面白いのではないでしょうか。
もともと日本人は、思いが「かたち」として心に残るように語ることが得意な人種です。多少なりとも心持ちを柔らかくして接しさえすれば、必ずやまた新たな形が生まれてきます。
ですから、正しいと思った理屈が間違っていたと後悔しないよう、もうそろそろ、医療者としての「いのち」を考えねばなりません。それは実に容易なこと、まあ要はただ単に、徳を「うつくしい」と読めるかどうかです。
はてさて、いつもの反省要素ゼロの妄想ばかりで申し訳ありません。