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コラム

文化 その廿九 あの穢れなき研修医は今…⑥

ところで、何やら思いますに、手術における文化の継承とは発展性の無いものなのでしょうか…?
確かに今まで、自分に合わない文化ばかりが数年続いたこともありました。嫌いな文化が転がり込もうとしたこともあります。しかしそれでも、最近は何故かやたらに…、何やらカニやら、捨て去られる文化が多いように思われます。
より質素に、それでもお洒落な文化を模索していくこと…、それが文化継承の本質でしょうね、文化度の高さとはそのように考えるべきであります。もし、継承に発展性が無いと感じるのであれば、反省すべきこととして、その可能性に気づかなかっただけかもしれません。もし、小生が今まで嫌いであった文化があるとすれば、単にその文化に嫌われていただけのことかもしれません。
文化に好かれるには、その場所に入ってみるしかありません。その意味において研修期というものは、文化を比較して捨拾する、いわば文化とのお見合いの時節でもありましょう。たまにジョーカーにぶち当たるのも一興というものです。

文化を面白いと感じる理由の一つは、その継続性の濃密さとその消費加減と考えます。
どれだけ豊富に保存され、かつ大切に積み重ねられてきたのか、そして言葉は悪いですが、どれだけ食い散らかしてきたか、それが他に負けない本来の文化と言っていいのでしょう。あの昭和晩期にはそのような文化がどこの施設にもありました。そういった文化継承の重要性をよく知っている上司がたくさんいたのです。
少なくとも、我々外科医は、文化的に頑固な爺さまになってはいけません。それは文化が最も嫌うことであります。

さて、読者の皆さま、大変長らくお付き合い下さいまして有難うございました。ただただ恐縮しております。
本稿は、あの研修期への供養でございます。もちろん、小生の生前供養と考えていただいても結構です。

あの昭和晩期、東京湾から銀座の山並みを超えて流れ来る東南の風が、歌舞伎町という魔法の森にぶち当たり、甲州街道の一角におこぼれの雨を降らせました。そこに、例の研修医たちが誘い込まれていったのです。
彼らは物を考えるというよりは…、そこにある従来の文化にただひたすらに均されて、そして、おこぼれの雨で育つ新たな文化を無我夢中で追いかけていったのでありました。それは、あたかも遊牧民のようでした…。

この環境、今思えば、手術的には極めて現代的で合理的だったと思います。
研修医たちは、もっぱら環境に順応しながら、微妙に変化する文化を眺めて、そこに酵素をぶち撒けて発酵させるだけで良かったのです。
もちろん確固たる成果は滅多にありません。
しかし、そこで何か一つでもすっきりした気分ともなれば、今すべきことだけははっきりとさせることができたのです。そうです、このことだけが物事を考えるという彼らの行為でしたね。多少マシな自分を確認できるのでありました。
それは、進むべき道への切符を一枚だけ抜き取る行為であります。在所の素晴らしさは、人が参加することでさらに大きくなるのです。小さいながらも、それは文明らしきものであったと考えています。

あの昭和晩期の頃の小生は、未だ現在の小生の中に居るようです。しかも、これを書く度に成長している気配があります。少なくとも、今の小生よりは早めに大人になることでしょう。このまま、育ててみようと思っております。
小生は純な九紫火星です。
小生としては、今後も、妙に魅力あるものや長いものに傾斜することはないのでしょうが、昭和晩期の小生には多少の運命の変化があって然るべきと考えます。現在の小生の中にいるからこそ、新たな運命も生まれたりして…、楽しみなことです。もちろん、パラレルでも輪廻でも何だっていいのです。
ただ当然その内に、南谷勘彌と口出ししてくるのでありましょうね。後出しジャンケンしそうな気もします…。
でもご安心下さい。新たに生まれる運命は、お行儀良い環境へとぶち込んでおきますし、昭和晩期の小生には、余計な一言を口走らないようにちゃんと見張っておきます。
それにしても、あの当時を思い起こすだけで心が騒ぎますね。文化を初めて感じた若手の心の動きほど、興味深いものはないのです。

昭和晩期が終わると、直ぐに平成という手術三昧の風が吹き始めます。
しかしそのあたりの三昧物語については、これ以上触れずにそっとしておきましょう。もちろん語る(騙る)ことは山ほどあります。ただ、それはさらなる混沌期でもありますからね、よほど心してかからねば何だか粗相をしそうです。そうですね、また時がくればということにして頂ければと思います。

さて、長くなりました。
それでも何やら言い忘れたような気がして…、しかしそれを話し始めると、何だか序文へと戻ってしまいそうな気配がいたしますので、急いで終わります。皆さま、ごきげんよう。

<後記>
先日、あの当時の同輩から手紙が…。
「やみがたき懐いとはいえ、貴兄の文章は端から日本語としての共通性に欠け、というか普遍性は皆無で、結局は自分が納得してきた文化をただ懐かしんでいるだけ…。
でもまあ…、そうだな、上手くいけば、内容の殆どは、今後全ての若手がいずれ感じることであろうな。もちろんそれは多かれ少なかれということで、そして当然に恐らく多分という範疇でのことだが。
しかし老婆心ながら、十のうち七から八つは、まだまだ先に経験すべきことではなかろうかと思う。
今はまだ、気づかせずにそっとしておいた方がいいのではないかと、つい心配してしまう。若手には余分な負担をかけることになるかもしれないからな…。いやそうでもないか、時節は進化するもの、まあ色んな運命があってもいいのだろうよ。これだけの駄長文、どうせ、十人のうち七から八人は最後まで読む気力も失せるだろうし…。
それでも、ネットの片すみに置いておけば、人間関係に疲れた若手にとっては、何かしらの役に立つかもしれない。
確かに、若手の頃の心に響くのは、心に残る記憶が現実と重なるという、つまり奇縁な同時性であることは間違いない。だから、文章として残しておけば、いずれ若手が読み、一風変わった同時性が現れるかもしれないな。
そして記憶も現実も、両者とも美意識という感覚で解釈することができれば、それは医療人としてはとても幸せなことなんだろうよ。それは間違いなく、患者への余慶になるのだから。

手術は科学である。だからその法則に従えば結果が出る。すべて平等だと思う。
しかしそこに、その基準となるべき文化が育たねば、大きな誤差を生む可能性もまたある。組織とは実に難儀なものだ…、俺たちも随分、苦労したよな。
もちろん、個々の手術人が理想とする文化はある。
しかしできれば、それは多くの人間の向上心という束から必然に起こり、そして美意識があるかどうかで生き残っていくものであって欲しい。能力が高いとか低いとか、そういう判断では決してなくな。そうであれば、その文化は手術をするための大切な基準となり、若手が進む道筋を真っ当に守っていってくれるのだろうよ。先祖代々続く文化があるとすればそんなものかもしれない。

俺もまた、今思えば、もっと多くのことを、そして多くの文化を、もし前もって知って、そしてもし前もって感じていれば…と思うのだが、
いやいや、そう考えること自体、老醜だな、それは今後の若手の将来に期待するとするか。
ロートルとしては、あの良き時代の文化が存続することを祈っておくだけとしよう。何故なら、あの昭和晩期の日本の中で、榊原で生まれた研修期文化ほど自由なものは無かったのだから。そしてそこには、外科医教育に必須の、匂いとか味までもが伝わってくるエブリデイの愉しさがあったのだから。誠に幸せなことだった。
ほなまた何処かで…、元気でな」

「まあ結局、あったふとはただそごさいるだげでいのだ」