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コラム

文化 その廿四 あの穢れなき研修医は今…①

結局、大阪弁にはいつまで経っても慣れへんし、まして京都弁は、遥かに遠いお国の言葉なんどす。
各種お国訛りの標準語らしき標準語を聴き、そこに自身の訛りをまぶして新感覚の標準語としていたあの研修期、今思えば何と心広く標準語を定義していたことか…、感心してしまいます。
それにしてもよくぞ会話が成立していたものです。これもまた昭和晩期の東京文化と言っていいでしょう。標準語を語る(騙る)という都会人的な優越感は確かにあった訳でございます。
唐突ですが、研修期ゆえに磨り減らす大切な何かを、それ以上、擦り削らずに済んだことは、もしかしたらこの不思議な標準語のおかげかもしれません。それは、相手を察するという、行儀良い謙虚な言葉でありました。

さて、今回で凝りずの廿四作目、飽きもせずあの4年10ヶ月を振り返っております。
ただ残念なことに、小生などの来し方なんぞ何ほどのことはありません。でもようやっとです。ここまで書いて記憶の贅肉を落とすことで、何やら当時の骨格が見えてまいりました。心に残る悔いが幾分か薄まった感もいたします。
とはいえ、ふと同時に苦味を懐うのでございます。
小生の中に巣食う、研修医の頃の実に分かりにくい自分が何やかんや言ってくるものですから、面倒くさくも付き合うしかないのです。未練がましい限りですね。でももう暫くはこのままで良しとしましょう。
そんなとこで、今なおこの文を書いております。

あの当時に若かった同世代(±3y)の皆さま方、お元気でっしゃろか?
小児心臓外科学がその魅力を存分に発揮した時代はあの昭和晩期、手術の変革期とも言えまして、そういう舞台でなければ、我々研修医固有の色香は存分に発露し得なかったのではないか…、そう思ってしまいます。
研修期は、生熟れ修行医の花の時分でもあります。
それでも、それぞれに花一輪の美(?)がありましたね。もちろん自分一人で花咲かせるほどの器量はありません。でもまあそれはそれとして、確かに秀でた花があったのでございます。それは個々のカラーというべき精神性、単なる悲愴と滑稽でもありますが、ここにもあの当時の手術文化を思うのです。

それにしても、時代というものは怖ろしいですね。
記憶が鮮明なのは、あの当時の風景がおおらかで輪郭が見えやすかったのでしょうか…。そして、あの当時の緩和という文化を辛辣に感じるのは、その風景を纏うことで、煩わしき時代に生きる人々の御心までありありとさせていたのでしょうか…。
研修医の花とは、反対の態度を取るでもなく、むろん賛成でもなく、中間の態度で妄想して、背骨の棘突起だけは明確に提示する…、そのように自身の風景を組み立てることでもありました。
いやはや、都合の良い思い出ばかりが極彩色で浮かび上がってまいります。

たまに彼らに会うと、やはり当時の影響でございましょうか、時代を超えた強烈さに襲われてしまいます。
特に+3yの輩はそうでございましてね。
全てを吸い込んでしまう上から目線の呼吸機能、そして、全てを飲み込んでしまう鉄の肝臓を未だ元気に保っておりまして、今まで幾たび、今宵が丸く収まるように手を合わせたことか…。
最も難儀なのは、昭和の楽曲にだけは奇妙なこだわりがあることでございます。
壱里先にまで届けとばかりに歌い続けるその姿に、期待してはいけないと思いつつも、ついつい変化球を期待してしまいます。正座させられそうな気分にもなりましてね。酒蔵で感じる呼吸困難にも似た真綿感を感じてしまうのです。
しかしそれでも、改めて彼らの引き出しを垣間見ておりますと、まずはお神酒の口当たりが変わります。そして、何かしら視座も変化させられてしまいます。妙にさっぱりするのが毎回不思議ですね。
これもまた、この齢になったからこその、彼らから受け得る緩和と言って良いのでしょう。

とどの詰まり、我々外科医というものは、
自分の何やらあれこれを手術の中に押し込んで、その変化をこれまた何やらあれこれ新たな感情として見つめ直す…、そんな中でしか生きる能が無い代物なのかもしれません。それは宿命と言えば宿命…、外科医には当たり前のこととはいえ、実に難儀な生き物です。
そして僭越にも、手術の中にあれこれ押し込むことは、自我を解放する感に等しくもございまして、そこにまた、「手術は自分のためだけにやるもの」という、烏滸がましき心持ちもまた生まれてくるのであります…。確かに難儀なことですね。でも幸せなことだと思います。
あの当時の若手の思い、
それは、誰それのような外科医になりたいでのではなく、ただ、根気だけで上手な外科医になりたいと願うことでした。実に上等な精神です。外科医の分際なんて見えもしません。それは我儘な楽天主義とも言っていいのでしょうね…。昭和晩期の研修医には被害者意識皆無の男気がありました。

小生には昔は良かったというような骨董趣味はありません。飽きやすさ魂だけの外科医です。
しかし当作文においては、あの研修期が拾捨されずに何度も甦ってきてしまいます。
それは研修期の人間臭さという先入主があまりにも濃厚に存在する故でしょうし、また、そういった研修医たちをあまりに見過ぎてしまったせいでもありましょう。そうですね、少なくとも、今の内に詳述しておかないと成仏できなさそうな気は確かにしているのでございます。
とはいえ、どんなに考察を重ねても、昭和晩期の研修医をどう定義するのかという難問題が解決されるとは思えません。外科学にもし滅亡の瞬間が訪れるとすれば、この謎を抱いたまま滅んでいくことになるのでしょう。
昭和晩期…、いずれ直ぐに平成というハイカラな風が吹き始めるのでありました。

もう少し続きます。次回こそ最終稿にしたいのですが…。

「昔々のごどなんだがな。三内丸山がまだ海べりにあった頃の話すさ。南がら鮪追いがげで流れでぎだご苦労な民がいでな。なにせそいづらは天孫降臨の奴らなんで、こぃがまだ難儀にもお神酒好ぎでな。だはんで必定、わんどの祖先ど意気投合すてまってな。そごで出来上がったのが、一つ話しどお神酒一杯だげで通ずるどいう、当時日本でもっともナウぇ標準語であったらすいぜ。それにすてもわんど日本人は、新だな文明作るのが苦手だな」