おはなし その六
読者の皆さま、長々とお付き合いくださいまして有難うございました。
今回、この『おはなし』を書くにつけ、人前に立つにはよくよく吟味したお題が肝要…、もちろん他意はありません、改めて感じ入った次第です。
しかし一方、前述したように…、単に多くの方々から共感を頂くのではなく、ただ一人の可能性を潰さないがための『おはなし』、そんな仕掛けもまた大切にしたいのであります。小生の経験で恐縮ですが、どうやらそんなところにこそ、不思議なご縁が転がっていると信じます。
ですからもう暫くの間、いつもながらの妄想劇場、題して“飽きやすさ魂”の『おはなし』…、広き御心でお許しくださいませ。
さて、お開きにもう一言お詫びを申し上げます。
申しましたように、ある講演会に参加したことから始まったこのブログ、ここまで引っ張ってまいりまして、
「喋る方も聴くほうも、大いなる“傷つき”の歴史があればこそ、
演者は自らと聴衆を癒す…、そうなればまた演者も癒やされる…」、なんてことを何やかんや、ツラツラと書いてきたのでございますが…、
しかし、よくよく考えましたところ、
外科医って輩は、「手術で傷つきがあれば、それは手術でしか癒やせないのではないか…?」、そのような、当たり前かつ常識的な疑問がふと浮かんできまして、
考えてみれば、自分を癒せる手術ならば、子どもたちも親御さんも仲間たちもまた“癒せる”…、ですから結局のところ、巡り巡って自分はまた癒される…、ということでございますよね。
そういたしますと、今回、別に『おはなし』としてお話しすることではなかったのでは、そんな気がしてきまして…、当ブログの根幹が激しく揺らいでいるのであります。
でもまあ…、語るってことは“騙る”ということでもございますから、
そんな外科医らしいオチで何とかご容赦いただけることも可能ではないかと…、誠に恐縮ではありますが御願い申し上げる次第です。
先々週に、また一つ齢を重ねた小生…、気更来には程遠い夜明け前の通い路、背をこごめながら歩いているのでございます。
外科医としての摂理や導かれるお役目というものには、恐らくどこかの前世でそれにまつわる極めて重要な出来事があったのかもしれませんね…、
つきましてはその内に、“時代に呼ばれる”とでもいいましょうか、そんな運命的な『おはなし』もできるのではないだろうか…、そんな道別を期待しております。精進することにいたしましょう。
ご清読、誠に有難うございました。