おはなし その四
前回からさらに続いております。
さて…、講演にはそれぞれに“お題”がございます。そのお題を求めて多くの方々がいらっしゃいます。
小生の場合は当然に、手術に関する『おはなし』を期待されているのでしょうね。
そのせいでしょうか、あまりに手術とかけ離れた内容では、「騙された」「妙に首肯するだけの話しは飽きる」「せっかく新しいミット構えたのに何で?」などと…、講演後のアンケート評価が平均3点未満(5段階評価)、そんなこともよくあるのでございます。
一方、専門的な手術のお話になりますと、「何を聴いてもオモっ」「どこから観ても重っ…」「子供連れには無理」「前列の若い女性が貧血で倒れた」、そんなアンケート回答もまま…。
そして、そんな時の小生はどうかと言いますと…、一応の反省とともに、「今度は十八番の歌で攻めてみよう」「あざとくウケを狙おう」「先人の格言をパクろう」などと、いつもの妄想を奮い立たせながら一人温かいBOSSを飲む…、そんなこともまた度々なのでございます。
ところで、「聴くことで得られるもの」、それは一体何なのでしょう…、これまた人それぞれでありましょう。
最も大切なことは…、『おはなし』の内容をバーチャルに想像することで、“場馴れ”のキッカケを見つけること…、最近は密かにそう思っております。
この“場馴れ”…、それは決して、知識や技術の獲得に慣れるとか、問題の解決法に慣れるとか…、そういった類のものではありません。もちろん、癒しでもない…、あくまでもただ“慣れる”のであります。
いやはや、大雑把なお話しで大変恐縮です。がしかし、人間はもともと、脳と時間(たまにお神酒)を駆使し、慣れる(忘れる)ことで心を緩和できる生き物でございます。そうですね、そう考えますと、“慣れる”というよりは、むしろ忘れることで“心を均す”、そう言った方が小生っぽくて良いんじゃないか…、そうとも考えてしまいます。
講演に来ていただく若手外科医は、それぞれの悩み、課題、そして“段階”を持っております。他職種の方々も当然にまた然りでありましょう。ですから僭越ではありますが、そこに気づいてしまいますと、この人だけに向かって話そうとか、コイツだけは上手く“均して”あげようとか、講演途中にそんなことも考えるのでありまして…、
そしてまた一方で、「自分に対して言い訳をするように原稿を読む」…、あたかも自分を“均す”がごとく『おはなし』を進めていく、そんなこともあるのです。
しかし何ともはや、そんな時に限って高評価をいただくこと、全くもって皮肉なことでございます…。
さて、そんなかんだで、毎回、講演の仕掛けを考えるのでありますが、
僭越ブッチャケ、“肝中の肝”は大事に取っといて、それ以外は何もかもが馬鹿みたいに軽く、しかもけっこう遠慮の無いお話しにしてもいいのではないか…、そう思います。
講演終了時には、効果があったとか為になったとか、そんな野暮で型苦しいことは言わせない…、ただただ愉しくて、のめり込んで打ちのめされて…、でもそれでも暫く経ちますと、理屈抜きで心が“均されて”…、そしていつのまにか“一つ話”が生まれていく、
上手く言えませんが、小生を含めて、聴衆の方々の自由度を上げるというか、はっちゃけさせるというか、少しだけでも躁的になることを許可すると言いますか…、できますれば、そんな『おはなし』を整えたい、いつもそう願っております。もちろん理想ではありますが…。
そうですね…、そういえば、あの若手の頃の半端なき傷つきの時代、心を“均したもの”は、慰めの言葉や時間ではありません。ましてやお神酒でも…。
結局のところ、日常の手術室にある仲間たちの笑いと冗談、そしてもちろん多くの手術…、
それだけで愉しくて苦しくて愉快で、一時でも心の重さが“均されてしまう(騙されてしまう)”のです…。
そうしますと、何故かその分と引き換えに、どうしようもなく面白い思い出が積み重なっていく…、
今思えば、当時の現場には、何があろうとも笑い飛ばせてしまう、そんな“一つ話”が多く残っておりましたね。それらが面倒くさくも“話しのネタ”となってくれることで、若手はいつの間にか均されてしまい…、何とかなる時に何とかなっていくのでありました。
これこそが、“シラケもしくは新人類”という小生らの世代に許された伝説の大技、「“山水蒙”、ウラを取って“天下同人”」だったのでありましょう。
さて次回、もう少しだけ外科医への『おはなし』を追記しようと思います。
続きます。