おはなし その三
前回からの続きでございます。
実を申しますと…、
学会にしても、講演にしても、山ノ神にしても、人の『おはなし』をほとんどと言っていいほど聴かない小生であります。もっと正確に申せば、知っていることは聴かない、そして知らないことは気が乗らなければ聴かない…、
そんな小生がたまさか、ある講演会に参加したことがキッカケで今回のブログを書いているのでございます。
さて、その講演会…、医学とは全く関係ないもの、もちろんその内容もまた然りであります。
そんな中で改めて感じ入りましたことは、聴衆の方々には、ビックリするくらい沢山の“目的”があるのだろうということ、しかも、ある一つの目的の中にも幾重もの段階があるようでございまして、このあたりは小生らの外科学の講演とは全くの異質…、ですから、そんな聴衆の皆さまを観察させて頂いているだけでも大変楽しくありました。
一方、同様に強く思いましたことは、演者にはまず始めに、「自らを癒すかor聴衆を癒すか」、どちらかの印象を強烈に示すべくの演技が必要…、加えて、特に人の生き方や緩和という話題においては、単なる知識だけでなく、膨大な経験が要るということ…、それらが多くの目的と段階を有する聴衆へ相対するための条件…、そうとも考えさせられた次第です。
そうですね、最近は手術以外のテーマでの講演が何故か増えている小生…、振り返りますと、何とまあビックリするくらいの恥ずかしきことの数々なのであります。手術以外の物語を演じるのはかなり厄介ですね。もちろん聴衆の方々はそんなことを見越してお出で頂くのでありますが…、しかしそれにしても…ですよね。
うーむ、外科医の講演…、当然とはいえ、大いに負けました、負けまくりであります…。
でもそれでも、こんな小生でも、常に講演の理想形を追いかけているのでございます。
内緒でちょこっとだけお示しいたします…。「えっ?そうですよ、あくまでも理想です、理想…」
僭越ですが、できますれば、何も心に残らずにお帰りいただいても、ご披露したことを“一つ話”として、日常の生業で何度も再考して頂ければ“いいな”って思います…。
そして、現実的には…、技量だけでなく、それに関する癒しや緩和の心もまた、繰り返し育んで頂ければと思います。
そしてさらに、あの演者にまた会いたいと切に願う時期が訪れれば…、もっと“いいな”って絶対に思います。
小生の外科医物語、烏滸がましくも聴衆の皆さまに対しまして、そんな風な『親切なおはなし』ができればと思うのです。「えっ?えぇえぇ、もちろんそうですよ、理想ですよ、現実逃避の理想…」
ところが、うーむ、これが中々でございまして、「訳分からん」などとご批判をいただくことも多々でございます。
未だに、そう未だにもって、いつも通りの“飽きやすさ魂”…、
聴衆の反応から話の途中で方向性を変えたり、時間の延長を計ったり短縮を図ったり、質疑応答に時間をかけてみたり、さらに言えば、ある一人の聴衆だけのためにお話を創ってみたり、QをQで返す反則技を披露したり…、そんなことをしてしまうのであります。関係者の皆さまにはご迷惑をかけることも数々ございましたね。
何度も申しますが、
喋る方も聴くほうも、大いなる“傷つき”の歴史があればこそ、
演者はまず自らを癒す、そういう話であれば、聴衆も癒やされる…、そうなれば、演者もまた癒やされる…、
つまり、
「聴衆の皆々さま、すっかりど癒やすてあげんべ」、「そうでねどオラも癒やされるごどはねんじゃ」、演者にはまずそんなツカミが要りましょうか。
そして、「演者さんよ、まずはすっかり自分ば癒やすなさい(もっと勉強すてがら出直しぇよ)」、「そうでねど、オラも癒やされるごどはねんだ(面白ぐもなんともね)」、聴衆には演者へのそんな声援(ヤジ)も必要でしょう。
そのような演者と聴衆…、お互いの親切と思いやりで成り立つ“おしん”劇場を演じきることができれば、まずもって講演は成功なのでしょう。
さてさて今回のブログ、決して長編にはならないようと思ってはいるのですが、その四へと続きます。“一つ話”について、少しだけ演者の立場から考察させて頂きます。
続きます。