手術室 その八 一緒くた
「外科教育…一つだけ具体的に?」
この質問に対し、“ヤツ”はこう言ってのけたのです。
『手術の修行というものは、上司の手術を観ながら、段々とより複雑な手技の習得へと移っていくのだが、
若手にとっては、今まで行った手技を、後々「容易である」と思えるかどうか…、そう顧みることができれば、まあいいんじゃないか。まずは、そこだな。
でもな、経験上、それだけじゃあ、いずれ何かが足りなくなるんだ。
例えば、手技という点で誰かと競い合うことがあったとしてもだな、それは「良くて勝つだけのこと」…、少なくとも、眼の前のボスの手術を超えることはまず有り得ない、…そう思うな。
そうだな、やはり…、
個々の手技に“容易さ”を感じるのではなく、
手術に付随する総合的な「上手さ、巧みさ、器用さ」、そんな漠然としたものに同色の容易さ(シンプル)を感じていけるかどうか、そこが大切ではないかと思うんだが、どうだろう?
もし、それができれば、複雑な手術もシンプル化することができるだろうし、ひいては、どこでも、誰とでも、どんな手術でも、楽にシンプルな対応をすることができる…、何だかそんな気がするんだ。これまた妄想か?』
♨
さて、
焼肉屋で最も背徳的なデュオは、何と言っても“カルビ on the 卵かけご飯(KOTKG)”でありましょう。罪深き囁き声が漏れ聞こえそうであります。
網の上の、カルビの焼き加減を凝視しつつ、同時に、無言で卵を割る“ヤツ”…、
確かに、その手際の良さは実に“シンプル”、魅せる手技であることに間違いありません。
がしかし、この許されぬデュオのより重要な価値は…、
カルビを乗っけた後の、卵かけご飯へのタレの染み込み…、つまり『一緒くた』の旨さなのであります。
大切なことは、その染み込み具合に“巧みさ”を感じ取れるかどうか、そして、出来上がったKOTKGの旨さを、“容易”と思えるかどうか…、決して、手技に感じるのではないのです。
そんな“ヤツ”の手と、割られる卵を横目で見ながら、「ほんのちょっとでいいから、卒啄同時するくらいの余裕を観せてもいいんじゃね」と、ほんの少しだけ毒づいてしまったのでありました。
続きます。