手術室 その七 遠慮
「外科教育…?」
この質問に対し、‘’ヤツ‘’はこう言ってのけたのです。
『手術見学の方々が、「ここの教育っていいね」って思ってくれたら嬉しいだろうな。でも、そんな風になるには、どんな条件が必要なんだろう。
確かに、良い外科医を育てたい…、けど、どこまで成長したかって判断は難しいなあ。
何故なら、はっきりとした形として出来上がるというよりはむしろ、何らかの響きが残るだけだから。
むしろ、可能性を託すっていうか、いや、祈るって言った方がいいのか…。
しかも、なるべくなら若手には、自分の足音だけ気にさせて歩かせたいと思うのだが、でも今の教育には、その過程も成果も含めて、色んな決まり事があるし、段階があるし、しかも度々に変化してしまうしな…。
そうだな、まずは教える側が、何が何でも教えてやろうという気になるかどうか、やはりそれが大切じゃないか。
そして、教わる側は、何度も言うことだが、自身が頼りにされるという満足感よりは、この手術室を頼りにしたいと思えるかどうか…。
話しが飛ぶが…、紅白歌合戦初出場で舞台に立っているいう感じって分かるか? もちろん俺は出場したことはないが、それでも外科医らしく言えば、
廻りの皆が何も知らない自分を助けてくれるかどうか、廻りにそういう気持ちを持ってもらえるように自分が如何に振る舞うか、そんなんが、教育っちゃあ教育の始まりだと思うんだ。もちろん、説明にはなっていないし、答えにもなっていない、でも、決して間違ってもいない気もする…。
まあとにかくだ、これも何度も言うが、後はそんな若手を見て、昔の自分を思い出しながら、自分と同じ失敗をさせないようにするだけさ…。つまり、お前らと同じ思いを持っていたものが「ここにいる」と何気なく知らせればいい訳で、無意味な口出しだけは『遠慮』するんだ。
長くやっていると、大した努力もせずに、知らず識らず上手くいくようになる…、ある意味、それが「教わる」ということだし、
手術に取り憑かれて荷が重くなった時に、逆に背中が軽くなったような気がする…、これもまた「教わる」ということだし、
まあ普通はさ、人間、極まった体験をすると、それ以下なら‘’さほどでもない‘’と思うようになるよな…、
うんそうだな、そんなことも教育と言えのるであれば、教育って何だか愉しくなってくるけどね。
もちろん、教育とはいっても、手術は好きだからやるもの、そうでないと続く訳がない。まあ当たり前のことさ。だからこうやって、教育に関して何やかんや言い合うのは、却って野暮なのかもしれない。
外科医ってのはさ、教育にしても何にしても、あって当たり前のものが突然失われる、そんなことにすぐに慣れる器用さは持ち合わせていないのかもしれない。
しかし、もし…、あって当たり前のものが、当たり前に残ってくれていて、それが未だに教育に役立っていると実感できることがあるとすれば、そうさな…、
この齢になっても手術をしている俺は、まだまだ手術人であり、教育人だと自慢してもいいんだろうな。
ああそうそう、思い出した。そういえば、俺さ…、
昔、3丁目のバーで、「あなた、昔のアタシみたい…❤」って言われたことがあったんだ。いつも着流しで決めていた、あのオネエの兄さんは今どうしているのだろう。また教育界に戻ったのだろうか。お前、何か聞いてない?』
♨
そんなモン知るか!
段々と呆れ果ててきましたが、でもまあ確かに、
外科教育に関しては、その理想を玄人さんがはっきり指摘してくれないせいか、自分の感覚だけを頼りに歩く、そして、先達がどういう精神でどんなことをしてきたかを想いながら実践する…、それもありなのかもしれません。その為には、どんなに滅茶苦茶な理屈があろうとも黙って受け止めなければならない…、そんな時もまたあるのでしょう。
それにしても何にしても、‘’ヤツ‘’の思考方法の方がむしろ上手くいく、そんな世の中なんだろうと思うと、何だかちょっぴりガッカリするのですが、少しだけ気も晴れるのです。
続きます。