心臓外科医の徘徊道 その一 打つ
読者の皆さま、おはようございます。
先日、ある雑誌から執筆の依頼がありました。
しかし、折り悪く、生来の飽きやすさ魂が見事復活した時分でもございまして…、
「文章はその人の為だけに書いたと思わせることで、贅沢感と琴線感が出る」というコンセプトのもと、頂いたご趣旨とは大きく異なる、アマノジャク作文をやらかしてしまったのであります。
ここに慎んで反省し、再執筆する次第でございます。しかし、どうにもこうにも、文字数制限というお約束事にはいつまで経っても慣れません。
さて、小生の年齢では既に、散歩と書いて「はいかい」と読むことも可能ではありますが…、いや、徘徊だからこそ、その意義が増すと考えることも可能なのでありましょう。
散歩とは、ぼんやりした足取りで、五感(+第六感)を少しだけゆったりと受け入れるもの、そしてふと気付けば、何かが自然と浮かび上がっているもの…、恐らくそれは小っちゃなことでしょうが、そんな心持ちの揺らぎは、何事にも代えがたい愉しみを生むのでございます。
そして、散歩にはもともと、道草を喰うという自由な時間が含まれております。ですから、時間の制限を持って、ダイエットや美容効果などと、何かしらの目的を求めるものではありません。ましてや、趣味や時間つぶしなどの言い訳をまぶしては、とてもとても成り立たないもの、
そう、散歩は間違いなく、「心を打つ道(どう)」なのであります。
ところで、早くも脱線させて頂きます。
この『打つ』という言葉、小生には何故か不思議と、「博打を打つ」と同音で響いてくるのでありまして、いやがおうにも、賭博性を感じてしまうのです。
そんな徘徊的(with 賭博性)散歩には、どうにもこうにも、多くの相反が生じます。
例えば、散歩中には必然的に、一番の楽しみ、舌鼓を打たねばなりません、そして、角打ちにも寄らなきゃいけません。どのお店に入ろうか、純米か吟醸か…、焼きか〆か…、ついつい罪深い味を求め、魅惑を求めて彷徨ってしまいます。でも、それは外科医の世の常…、決して、自分の心に抗ってはいけないのです。
もちろん、たまには、実際の味とその値段に、打てぬ思いが浮かぶこともありましょうね…、
しかしながら、そういった賭博的な葛藤…、その克服にちょいとした愉しみと物語が生まれるのでありまして、散歩にまつわる淫欲な習慣性もまた、そこにあるのでございましょう。
取り敢えず…、ネガティブな矛と盾は優しく傍に置いておくとして、
もしもそこに、ほんの少しでも喜びが確認できるのであれば、散歩に伴う、万馬券的な快味の期待はさらに高まります。もちろん滅多なことではぶち当たりませんが、必ず何処かには転がっているのです。
今、野川の畔を歩いております。
東京は既に花蘂を踏む季節となりました。お天道様はやや控え気味でして、頬を撫でる風は冷たさを孕んでおりますが、少し凪った水面を刺す白鷺、それを見越して水陰に駆け込む鯉、そんなやり取りを冷ややかに横目で見やるつがいの真鴨…、もう少しいたしますと、アオダイショウの平泳ぎも見られるはずであります。
さてさて、そろそろゆったりと、軽やかに鳴るあの瀬音が聞こえ始めました。
両足に引力を感じるいつもの上り坂…、こんなにも息が上がるのも初めての感覚ではありますが、そんな気配は今だけの五感の為せる技…、
町石は確かに少しだけ心の重みになりますが、その変わり目ごとに吸う空気は中々に美味なのであります。
東京の水が合わないことは重々承知、でもそれさえも「水に流してしまおうか」と考えてしまう、いつもの散歩道なのであります。
続きます。
題「良い子はちゃんと止まりましょうね。」