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コラム

教える その七 番外編 運命

つい先週のこと、「それではまた、ごきげんよう。」とバイナラしたのですが、またまたついつい外科医のワルイ癖が出まして、突然ではございますが、番外編を付け加えさせて頂きます。

さて、手術修行には突然という出来事が頻繁に現れてまいります。一つの段階を踏むから次のステップに進めるという決まり事は無いのです。
従いまして、何処ぞで申したように、「前もって知るべきことは前もって知っておく」、このこと当然に大切なことと相成ります。しかし一方で、前もって知るべきでないことも、まあそれなりにございまして、ましてや、ある時点が来ないと絶対に理解できないこともまた、論なく存在するのであります。
何ともはや、知識と技術を「合わせて」獲得していくことは誠に厄介なこと、教わる方かつ教える方、それぞれの精神がなおざりにかき混ぜられてしまうこともよくあることなのです。

そこで、さらに突然ではありますが、修行における『運命』について考えてみましょう。
人というもの、生まれた後に限っていえば、その後の人生をどう選択するかはそれぞれの自由意志、ですから、運命というものは基本的に存在しません。
でも一旦恋愛というお話になりますと、特にわれわれ世代の野郎どもにはある種の運命が纏わりついているようでございます。女性と偶然出会って、「これは運命だ」などと大騒ぎしてしまうこと、未だにかなりの確率であるのです。しかしながら、その運命はお約束的結末としてお空の彼方へ消え去ることが殆ど…、実に悲しい思いをしてしまうのでありまして、にもかかわらず、「この世には神も仏も運命も無いのか」と叫びつつも、それでもまた懲りもせずに、同じ妄想恋愛の時空に運命の身をあずけてしまう…、どうやら男性ほど、運命というものに吸い寄せられやすい生き物はいないようであります。

運命に関しては、3つほど思うことがあります。
一つには、
あまりにも偶然すぎること、もしくは奇跡、そんなことがもし起これば、人はそれを運命と信じます。でもそんな運命なんてそうそうあるはずもありません…。しかし一方で、これまた逆にひねくれて考えますと、日頃の生活の中にも、人が認識することのない運命がそっと潜んでいるのでないでしょうか。
例えば、何の問題もなく今日一日を無事に過ごせたということも、ある意味、偶然にも守られているという奇跡として捉えることが可能、それは平穏という名の運命といっていいのかもしれない…、どうやら運命というものは知らず知らず、そこらかしこに存在しているのです。
そして2つ目には、
願わずとも、自分自身に降り掛かる無理難題や試練…、手術修行の過程では本当によくあることです。
しかし、例えそれがどんなに嫌なことであったとしても、それを自分の運命と信じてやり続けなければならない…、これもまたよくあることでございまして、もちろん辛抱とやや強めの意志は必要ですが、でもやり続けているうちに結果が出て、「それは君のライフワークだね」などとお褒めの言葉を頂くことも…、そうですね、無いこともないのです。
そうしますと、あの時の試練は間違いなく運命だったと言っていいのかもしれない…、それにしても、運命と認識するまでには結構な時間が要るようです。  
そして3つ目、
それは出会いという運命。
おそらく…、人と人との「繋がり」の中には、お互いが心地良いと感じることのできる、そんな「緩和作用のある何か」が組み込まれているのでしょう。
そして、その何かの幾つかは、大きなお世話的にさらに「繋がろう」とする習性がある…、
しかも面倒くさくも、それらはいつの間にか大人っぽく熟成して、「相手がNであればこちらはS」というように、実に柔軟な引力を発揮してくれる…。
人間は、お互いの人生にも多少の影響と多少の責任を任された存在なのでしょう。この世で生を得ているという意義はそういった運命があるからこそと考えるべきであります。
そうならば、それは「与えられた運命」と呼ぶべき、運命は繋がることで得ることができるのかもしれない…、小児心臓外科にある運命は厳しくもけっこう温かめなのであります。

いやはやそんなかんだで、
本来ならば巡り合うはずもない皆さま方と小生が、このブログにて、スマホを挟んで向かい合っている…、これもまた運命なんだなと思いつつ、
世界中全ての子どもたちの平和を祈念いたしまして、それではまた、OK Come on!ごきげんよう。

題「ドントウォリイ アイムウェアリング」