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コラム

教える その六 最終稿

「教える」なんて、普通ならそんな恥ずかしいことは、口が曲がりそうで言わないのですが…、
どうも今回は、外科医らしい慎みを、外科医らしく忘れていたようでございます。(そんな時、そういった感慨は小生だけの反応でもなさそうだなと、反省をも慎んでしまったのでありました…)

しかしながら、そんな腹積りからは、「何だか良質なものが生まれそう…」、
また、例えそれが植物的なものであったとしても、小生らの年代の魅力として、「未だそこら辺に転がっていそう…」と、思えるのであります。
また、加えて僭越ながら、
「教える側」としては、「喋り得」「書き得」といった後ろめたさゆえの小気味良さ、
そして、「あの人はああいう人だからしょうがない」と思われるような独り占めの小気味良さ、
そんな都合のいい思いを少しだけ感じておりまして…、
喧々諤々となる妄想はなるべく抑えていくとしても、自省の念の希薄さは悠久に変わらないのであろうなと、反省する次第も無いのでありました。

さて、これでホンマのお開きでございます。
「教える」ことに関しては、「妄想を大いに膨らませること」、これだけは遠慮しつつも必須であります。
しかし少なくとも、染めるなんていう権謀術数は無い方がいい…、もちろん、矛盾に満ちた複雑な決まりごともまた、如何なものかと思います。
そして一方で、「教わる」ということは、“研修医若手組”ともいえる「組織風土によって成り立つもの…」、
できればそこには、南方系というよりはむしろ、都会的な渋ダンディズムを感じさせる土の匂いが漂って欲しい…、そうも思ってしまいます。
まあいずれにいたしましても、「染める」のではなく、自然と「染まる」風土をそっと残しておく…、
つまり、なまじいな美ではなく、あくまでも機能的な美…、そんな土壌を醸し続けることが、「教える」そして「教わる」という日本的な文化なのかもしれません。

何はともあれ、兎にも角にも、「教える」側としましては、上手くいく方法だけを始終考えるような、安直な世の中にならないよう、もう少し気張らねばなりません。
すべては、子ども達を如何に楽に引っ張り上げることができるかどうか…、ですから、あまりにも抽象的で、機能性も無く、また、思考すらも無い教育は如何なものかと考えるのです。
外科医、手術、そして「手術から生まれた思想」が、外科教育の存続を決定づける紛れもない大事な要素…、
そして、伝統とは、無駄であろうが無駄でなかろうが、何かを削ぎながら、おかしな部分を少しずつ溶かしていって、最後に残ったもの…、
ですから、特に臨床家には必定、「名利に繋がらない精神こそが旨いんだ」というブレない感性が肝要かと考えるのです。

さて、読者の皆さま、またもや大変長らく、失礼をばいたしました。
次回もまた、ご期待通りではございますが、超法規的な妄想を膨らませ、筆を走らせてまいります。どうか悪い夢をご覧にならないよう、お気をつけてお過ごし下さいませ。
それではまた、ごきげんよう。