Doctor Blog

コラム

教える その五

「完全を求めつつも全くの不完全…」、小生のブログを読むということは、良くも悪くも、そんな感傷に浸るということでございます。
読者の皆さま、当ブログを解体用の新書とみなして、某小児心臓外科医をまな板の上に置く、そうすれば少しは溜飲も下がることになろうかと思いますが、如何なもんでしょう…。(すみません、こういう強制的妄想に心が動かされてからでないと、小生のブログは進まないのであります)

さて、「あるある噺し」の第二話です。
今回は、「待つ」ということについて少し考えたいのですが、そこはまあいつも通り…、労を多にすることもなく、簡便というずるい方法での講釈になりそうです。

「どうせ逃げることはできやせん、永劫関わるんじゃ、だから、少しの間だけ畑違いを許す。」
人を教えるにはそのような、回避というか、はたまた逃避というか…、肥やしとなるであろう「時の間」が要るようであります。
「どうせ逃げることはできやせん、永劫関わるんじゃ、だから他のことはセンでも宜しい。」
人を教えるにはそのような、投資というか、それとも依怙贔屓というか特別扱いというか…、後ろ盾となるであろう「環境」もまた要るのであります。

またもやこねくり回すようで申し訳ありませんが、「教える側」には何はともあれ、「教わる側」の成長を「ひたすらに待つ」という、辛抱強さの性分もまた大切であります。
でもまあ“勘弁”してもらって、そのことを言い換えれば、「教える側」の「ほったらかし風の背負投げ~」というヤツでございまして、実を言いますと、小生も同様に、この背負投げで投げられた一人なのでありました。

傍目的にはこの「ほったらかし」、朝ドラ的に良さげに見えるかもしれません。
でも一方で…、
投げられた「教わる側」には、「畑違いの時の間」をどう過ごすのか、そして、後ろ盾の「環境」をどう隠していけばいいのか、逆に難題がふりかかることになる訳でありまして…。(まあこのあたりは、外科医特有の貧乏性というやつでございますが、教える側の思いを享受する平常心なんて、教わる側にはもともと有りはしないのです)

さてさて、
「時の間」というものには、「休む、今のうちに遊ぶ、ストレス発散、無為に過ごす」などなど、色々とございましょうね。それらもまた、永劫関わるための大事な一コマではあるのです。
そこで、ここからは、小生の「時の間の経験談」、その一部を少しだけ脚色してお話しましょう。

あの時の「時の間時代」を思い出しますと、珍しくも、“オッと”感じた瞬間が確かにございます。それは、自宅近くの川沿いを散歩中のことでありました。
川向うに咲く花を観るためだけに、わざわざ遠回りをしている自分に気づくのです。
それは決して、時間があるから、そうしたのではありません、流されてそうしたのでもない…、心から「敢えて」そうしたいと思っている…、何ともはや、そう気づいてしまったのです(いや、気づかされたというか…)。
もちろんその時は、まだまだ「教わる側」として、どうかしていたと思うのですが、
それにしてもいつの間に…、
こんな時間を過ごしても許されるようになったのか、また、未だこういう気持ちが遺っていたのかと、自分でも感心したのでありました。
それはあたかも、夕餉晩酌の熱燗もう一本追加的な貢物のよう…、けっこう暖かくスッとしたのです。(単なる「積極的な臆病心」かもしれませんが…)

歳を取るということは、初々しさとの戦いでもあるのでしょうね。
この年になりますと、散歩しても新しい発見はまずありません。淡い期待を持ちながら、古い残り香を嗅ぐようなものになってしまいます。
でもそれでも、あの川沿いの「時の間」…、
鳥の声を聞けば、どこまでも飛べそうな気がしたこと、
花を嗅げば、しおらしく咲き誇れるような気がしたこと、
うーむ、そうですね、今思えば、そんな心象風景というものは、子どもの頃から既にでき上がっていたのでありましょうか…、それとも、これまた、神さまの手のひらの上での出来事か…?
いや、それこそが「教える側が待つ」ことの真骨頂なのでしょうね。
その「時の間」では、確かに…、
「こんなんが、今後永劫関わるための、大切な“時間軸”かもしれないな」と、外科医らしくもなく、そうしっかりと思ってしまったのでありました。

さてさてさて、「わしゃどこのどいつだ…?」何だかそんな気分となってまいりましたが、
読者の皆さまもまた、呆れ果てた雰囲気を感じながらも、新緑の山道を散策している気分になっているのではないでしょうか。
「教える側」となった今日この頃、そんなことをつらつらと思い出しながら、
教える側として待つ、この「時の間」というものもまた、「教わる側」として過ごした、あの時の「時の間」と全く“おんなじ”…、そう気づかされたのでありました。

「五感を持って、これがそうかと気づき、そして心に刻む」、それが臨床家であります。それは、知識からのものではありません。比較するものでもありません(これらは、気づくという感性には厄介なもの…)。
ですから、外科医として今まで、多くのものを変幻自在に比較してきた小生が言うのも何なんですが、
「時の間」は、申すまでもなく、飽きやすいものでないといけないのです。ブレながらもブレない飽きやすさを持って過ごすこと…、それだけが必須です…。それを無為とでも言うのでしょうか。

続きます。