教える その三
さて、教育において、「らしさ」というお言葉は、色んな意味合いで遣われているようでございます。
それにしても…、「外科医らしい」とは、日本人としてどう定義したらいいのでしょう(そう考えるだけでも早速、多くの疑念とそれなりの妄想が膨らんでまいります)。
「えーっと、はいはい、前から3列目の白いジャケットの方、ご発言をどうぞ。」
「それは、抽象度の高い妄想を好む輩、ややネガティブな意味合いで用いる隠語ではないでしょうか。」
「うーん、そうですね、そう決めつけることは…、うん、ビッタシ的確です。おっしゃる通りでございます。」
少なくとも確かに、ある外科医像を思い描いて、その時点での憧れや尊敬の度合いだけで、「らしさ」が決まるものではないのでしょうね。
考えますにそれは恐らく…、その外科医が、「憧れや尊敬の度合いが今後も増えそうな気配を持っているのかどうか」、つまり、それが外科医の残香でもあるのでしょうが、もしそうであれば、ややポジティブに「外科医らしい」と言っていいのではないかとも思うのですが、うーん、如何でしょう…。これまたご指摘通り、地球規模の妄想となってしまいました。
でもまあ昨今におきましては、外科医らしいってことと、外科医の匂いがすることとは大きくかけ離れている…、残念ながら、これはこれで間違いない真理のようでございます。
このように、「外科医らしい」という定義さえも「ちょいと詳細に説明できない」、「態度も心も折れそう」ながらも「目顔だけ」は一所懸命…、そんな某小児心臓外科医は、外科医らしくも、また教育者らしくにも見えず、ただただ夢想家らしく見えるだけなのかもしれません。
まあとにもかくにも、景色のいい「外科医らしい」外科医を探すのはそれこそ中々に…、想像するだけでも難しく、そして怖くもなるのです。むしろ、ちょっとだけ…、人間らしい人間臭さを探すことにしましょうか。
さあさあ、次回からは、手術教育における「あるある噺」を一席もしくは二席、どうぞ、もう少しだけお付き合い下さいませ。
こう見えましても小生、手術に関してだけは、8月の蝉なみに五月蝿いのです。
続きます。