京王線の旅 2つの予定でしたが、その三
「記憶」について申し上げます。
「海が揺れている」、この映像、宮崎原産のドブロク痛飲後に観た夢でございます。
そのオンエア時間は不明でありますが、翌朝、その音声や振動、そして頭痛とともに、鮮明な記憶が残っておりました。
一方、「無色透明」とも表現できる記憶の喪失、これは伊勢の銘酒を少しだけ頂いた直後から約3時間の間の出来事でございました。4ヶ月が経った今もまだ、反省の日々を送っているところでございます。
前者は、あたかもタイムマシンの中で、時間軸モニターに流れる未来の映像を眺めるようなもの、
そして後者は、ドラえもんの「どこでもドア」で瞬間移動したようなもの…。
この齢になりますと、記憶があろうが無かろうが、これらは両者とも、「俺大丈夫か?」と、多分に心配すべき事案と考えねばなりません。
今回の京王線の旅、「記憶喪失事件」を考えてみましょう。
経験上、目的と結果の間の経過時間軸には、例え如何なる情報が紛れ込もうとも、また多くの邪魔が入ろうとも、結果を成り立たせるための多くのヒント(導き)が、どこかに舞い降りているはずです。
例えば、ある買い物をし忘れて帰宅したと仮定しましょう。「あ~あ」と思うわけですが、よくよく考えてみますと、
そのお店の前でラインの着信音がなったり、ずいぶんと長い信号待ちをしたり、何かしらの助けがあったはずなのにそれに気づかないだけ…、「ああそうだったのか」と、後々思うのであります。
もちろんそんな時、山の神からは、「齢だね」などと言われるだけなのでありますが…。
そして、今回の記憶喪失事件もそうです。
振り返りますと、事故の影響で、電車は調布駅手前で一時停車したのです。アナウンスも確かにありました。
またその時に、橋本から入線する急行電車も見ています。もちろん、調布駅前のトンネルでは、傾斜感と通過音という、いつもの触覚・聴覚の察知もあったのです。
それらのヒントに答えられなかった小生、…恐らくは…、
写実や写真では表現できないリアルな過去の妄想たちが、そのヒントを超えて、経過時間軸の道筋へと紛れ込んだ故の、意識の誤作動だったのかもしれません。
もちろんそんな時、そんな訳分からん話しはどうでもヨロシク、山の神からは、「ボケたんじゃね」などと言われただけなのでありますが…。
さて、今回の、京王線「ボケたんじゃね」事件、
精一杯の言い訳をすれば、「完璧に本に集中していた」、そう言っても良いのではないでしょうか。
確かに、心温かき読者の約数名の方々からは、「さすが小児心臓外科医」、「手術で培った集中力、ハンパない」などと、お褒めらしきお手紙をいただいたのでありました。
ただですね、うーむ…、「集中」ということに関して、実を正直に申しますと、
実際の手術ではそうでもないのでございまして…、しかし、かと言って、気が散っているのでもないのでありまして、もちろん、手術は真面目にやっているつもりなんですが…。
さてそこで、その「気が散る」ということに関して、いつもの妄想話を一席。
手術中に気が散るということは、外科医的にはそんなに悪いことではないのです。
そういった「五感の反応」と「手術の流れ」は、不思議と微妙にリンクしているものでありまして、ある意味、具合よく釣り合っているのです。
特に聴覚と視覚において気が散るということは、「鼻が効く」という意味でとても大切です。執刀医はむしろ気を散らさなければならない時があるのです。
まあそうですね、そういった意味では、我々外科医の五感は一般の方々より5倍くらい繊細といっていいかと思うのですが、実はこのこと…、
心臓の痒いところまで手が届くような手術をするのにとっても大事なことでありまして、野蛮アナログ世代外科医の真骨頂でもございますのです。
ああそうだ、野蛮アナログ世代で思い出しました。
手術で経験を積むということは、その一つ一つの記憶をファイルに入れて、本棚にきちんと並べるようなものではありません。
むしろ、手術の経験とはあたかも、ミルフィーユのように、一つの記憶の上に新たな記憶を塗り重ねるようなもの、そう表現した方がいいのです。
えっ? あーハイ、そうですね…、その通りです。
確かにおっしゃるように、その記憶を一枚一枚剥がして、それぞれの記憶を呼び起こすことは大変難しくなります。
…でもですね、しかしながら、この「ミルフィーユ記憶」は、
手術の流れの中で、その重なりをトランプのようにスプレッドするだけで、素早くすべてを眺めることができます。実に効率的なのです。
また、そのように、チームの記憶を滑らし広げる、そして全体を俯瞰して辿っていく…、そのような慣習は、阿吽の呼吸という感覚を育てることにも繋がるのです。
この辺りは、外科医らしくない…、言い得て妙の…、煙を巻き散らかす…、野蛮アナログ世代の言い訳の妙…でもございましょうが、
小児心臓外科医の性格は「愛」も変わらず「濃い」のでありまして、かつ、極めて「濃やか」でもあるのです。
あーそうでした。今、あの頃の外科医たちを思い起こせば、不遜にも、「心意気だけで仕事ができる自分ってカッコいい」って悦に入っている奴らばかり…、
でもそれって、昔も今も関係なく、実は相当にカッコいいことだったと、今だから実感してしまいます。
さて、話がグダグダとなりましたが、
単に酔っ払って記憶を失っただけの案件を、ここまで無駄に盛らせていただきました。
そして、再度のお断りですが、…さらに「そんな」気分になりまして、その四に続きます。