繋がる 繋げる その七 妄想
読者の皆さま、『繋がる 繋げる』のお話、今回にて最終話とさせて頂きます。
皆さまの「フー」という溜め息が聞こえてきそうではありますが、決してネタが切れかけているのではありません。むしろ、ここまで「繋げ」かつ「盛り」まくった自分を褒めてあげたい、三畳間の小生はそんな晴れやかな気分なのでございます。
さて、大変に失礼かつ不躾とは承知しておりますが、あの時の小生について一言…、
「変化に乏しい単調な手術生活を淡々と、飽きもせず倦みもせず、皆と日々の幸せを願うだけ」
手術三昧の生活の中で、烏滸がましくもそのように実感できていたこと、今考えれば、何とまあ、極めて異例なことであったと思えるようになりました。
さらに申せば、約20年はかかったにせよ、そのような代わり映えの無い生態の中で、
「術」にしろ「緩和」にしろ、そして「あれ」にしろ「これ」にしろ…、榊原記念病院手術室として当たり前の実用的見解というものを、それこそ当たり前に「繋げる」ことができたこと…、
そして…、「ああ、皆んな上手くなったなあ」と、自分でも偉そうだと思いながらも、心底そう思えたこと…、
これもまた大変に過大なる僥倖だったと思います。
これから始まる新たな人生、それが鮮やかになるのかくすんでしまうのか…実に楽しみでもありますが…、
あと20年は健康年齢の枠内にいることを期待して、
外科医にとって、いや日本人として当たり前のことを、例えどんなことが待っていようと、またまた変わらずに『繋がりながら』、『繋げて』いこうかと思っております。(まあでも、今現在においても、外科医でいることがまだ嫌になっていませんので、代わり映えしないものばかりなのでしょうが…。)
そして…、そろそろではございますが、
おかしなことを言っている人には、「それは違うんだ」と、たとえ敵意を買ってもちゃんと教えてあげるのが、慈悲に満ちた行為ではないかと…、さらに、
「嫌いなものを嫌いと認識した上で受け入れるということは滅多にないんだ」ということまで、ちゃんと教えてあげることも、義理人情ある行為ではないかと…、
功徳ある立派な大人らしく考えるようになってまいりました。
そんなことを思う小生は、もう既に、酸いも甘いも噛み分けられる都会の男になっちまいました。神社仏閣に関する知識だけは、多摩地区に住む小児心臓外科医の中では随一と呼ばれておりまして、つい先日のことではありますが、「前世も間違いなく日本人であった」と、改めて実感した次第でございます。
今後は、自分の心にノイズが無いことを確かめながら、背中で引っ張るという本来の意味を履き違えないように、そして、ツッタカ帽子で浮かれないように、過ごしてまいりたいと思っております。
うん?えっと…、あ~そうそう、そういえばそうだった、去年は「五黄の寅」だったんだ…。
それで、緩和に関する講演依頼も多かったのか?
だから、ブログも無駄に長々と書くようになったのか?
そして無意識に、バームクーヘンの層に意識を集中するようになったのか?
でもまあそんなことはどうでもいいや…、
とりあえず節開けまでは、講演もブログもその姿内容を変えることなく、外科医らしい究極のアドリブ会話を追い求め、そしてひたすら真っすぐにツっ走しることにいたしやしょう。そんな真っすぐの直線の中にこそ、手術三昧の時代に感じた『繋がる 繋げる』の進化、そんな目に見えない変曲点が再発見できるかもしれません。
そんな時にはまた多分に、桜の花を優しく散らすような春爛漫の風が吹くのでありましょう…「それは必ず来る」と信じております。
さてさて皆さま、長らく失礼をば申しました。
毎回毎回、「今回のブログだけは妄想をやめよう」と固く誓うのですが、小児心臓外科医の人生というものは、妄想がホンマモンになるから面白いのであります。
あの時、妄想デビューした高橋幸宏27歳はもう既に高橋幸宏66歳…、さてさて高橋幸宏70歳は、何を新しく妄想することになるのでしょう…?
でもまあ少なくともそこには、反省はもちろん、そして、無駄な後悔の念も無いだろうなと、推測はしております。
それでももし…、もしもですが、満ち足りた緊張感とともに、眼の前のことに対して一発逆転の説得力を持つことができるのであれば、それはそれで、それもまた運命ということでございましょう…、そんなヤングオールドはあらゆる意味で最強の存在、その後もシブトク生き延びていくのかもしれません。
ちなみに来週一週間は、「高橋幸宏・生誕67周年記念《無性に安心》向春特別強化週間」でございます。不滅のブログネタでも、ゆるりと妄想することに致しましょう。
というわけで、皆さま、大変お疲れ様でした。ごきげんよう、またお会いいたします。