繋がる 繋げる その三 運命②
人は何故ゆえに、「それは運命」、「それが運命」と信じることができるのでしょう。赤の他人から見ますと、「それは運命じゃない」、「それが運命じゃない」と思われているにも拘わらず…。
話がさらに飛びますが、ここで、運命に関する注意事項を一つ、
男というもの、女性に偶然にして出会った時なんぞ、「これは運命の出会いだ、神さまのお導きだ」などと、懲りずに何度も繰り返し、大はしゃぎする生き物であります。しかし、そういった運命は妄想で終わってしまうことが殆どですよね…、もうそろそろ「げに」自覚そして学習して、立派な大人にならねばなりません。
前回申しましたように…、「こんなにも他愛もないものなのか~い」の中には、運命へと誘うホンマモンの奇跡というもの、確かにあるのかもしれません。でもでも、そんなことは滅多にはございませんのです。
思いますに恐らくは…、
出会いや出来事という「繋がり」の中に、知らず知らずの内にお互いが心地良いと感じることのできる、そのような『緩和的作用のある何か』が組み込まれていて、その何かの幾つかは、大きなお世話的にさらに「繋がろう」とする習性がある、
そして面倒くさくもありますが、それらはいつのまにか大人っぽく熟成して、「相手がNであればこちらはS、SであればN」というように、実にフレキシブルな運命への引力を発揮してくれる、
そうそれが、「上方歌舞伎風の人情劇場型もしくは小市民的な奇跡」、そしてそれが、「霊的能力を一切必要としない世間一般の下町的ノンスピリチュアルな運命」…、
何だかその方がホンマモンの運命っぽくて、もちろん余韻的にも小児心臓外科医っぽくて、「いいんじゃない」って思ってしまうのですが、如何なもんでしょう。
さて、もしそうであるとすれば、「それは運命」、「それが運命」ではなく、「それは(与えられた)運命」、「それが(与えられた)運命」と呼ぶべきと思ったりして…。
人間は、お互いの運命の行く末にも多少の影響と多少の責任を任された存在…、この世で生きるという意味はそこにもあるのでしょう。できますれば、それが真実であればと思いたいのです。
いやはや何となんと、運命なんぞ全く信じようともしない小児心臓外科医の爆裂妄想全開ではございますが、これこそが日本人の美意識ともいえる緩和の原点、運命らしきものの源流でもありましょうか。
最後に、さらなる妄想噺をもう一席…、
人は一生の中で、例えそれが本当の運命でなくても、「これは俺の運命だ」と信じて、「命を懸けなければならない」、もしくは「何が何でも完遂しなければならない」、そんな天からの使命らしきものが必ず出てきます。
そして、これはまっこと「あららの不思議」ではございますが、それが例え体育会的であっても義務的であっても強制的であっても、ただひたすらに続けておりますと、いつのまにか…、それこそ自然に、
『その道の歩き易さが分かり、最短の経路がよく見えるようになる。
加えて、常識を超えて、心を奪われる何かが出てくる。
また、少なくとも自分に対しては嘘をつかないと誓うことができて、
タフでいられることに慣れていく。
何だか段々と、愉しむことが出来そうな気がして、
気が遠くなるような未来だと思っていた10年後が、実はそうでないと思うようになり、
そして…、
そのやるべきことは生涯のお仕事となり、いずれそのお役目を無事に終える時期がやってくることになるのです。』
ああそうか、いや確かにそうですね…、
もしそうであれば、やはり、「それは運命」、「それが運命」と言っていいのでしょう。
もちろんその運命は自己満足的な「妄想的運命」ではあります。がしかし、自分自身が自ら、積極的に動いたという事実があるからこそ、特別に大きな力を宿すことになるのでしょう。別の運命までもが、「俺、呼んだ?」って、ついでに近づいてくれそうな気もいたします。
そしてさらに…、懲りずに頬を染めつつ申せば、
「運命は確かに存在する」、「運命は与えられる」、いやむしろ『運命は繋がることで作られる』ということなのでしょう。
でもそうですね、まあ結局は…、神さまの手のひらの上で遊ばされているだけなのでしょうが…。
今までの小生を振り返りますと、外科医として結構正しいことをやってきたつもりではあります。でももし、運命から外れたことがあったとすれば、それは世間と合わなかったことだけかもしれません。
続きます。
読者の皆さま、この一年、Doctor Blogにお付き合い頂きまして誠に有難うございました。南谷勘彌ございましたが、何とか無事に新年を迎えることができそうです。どうぞ良いお年をお迎えください。
小生は今から、来年の流行語大賞に向けた準備を始めることにいたします。