手術と音楽 第七章 緩和
『執刀医以下チームスタッフは、手術の主役である赤ん坊を檜舞台にのせて最高のパフォーマンスをさせる裏方であります。裏方だからこそ、そこに発生する幸福を皆で共有することができるのです。その共有に乗り遅れないようにしなければなりません。』
読者の皆さま、おはようございます。
「ここまで気にしなくなった自分を褒めてあげたい」、何の脈絡もなくそう瞑想(迷走)する今日此の頃でございますが、お変わりございませんでしょうか。
手術と音楽、なりふり構わずさらに続きます。今回も効能のお話です。
音楽の効果というものが、たとえ自己満足であったとしても、
その効果が音楽によるものと信じる「音楽信奉者」の外科医は、それはそれでなかなか興味深い存在であります。でももし、そんな外科医が音楽をかけずに手術をして、さらにより良い効果を得たならば、それもまた興味深いことでありまして…、
そしてこの論理の流れに従えば、「音楽不信奉者」もまた同様の、その逆もまた真なりか…?
ということで、興味はさらに深まっていくのです。
「緊張感」について考えてみましょう。
これは小生の経験でもございますが、
執刀医というもの、手術中には、普段使わない頭を約百倍ほど使って普段よりは約千倍元気になっております。まあ要は、かなり「訳ワカらん」ハイパーな人種と化している訳です。
もちろん手術室の中には、良い意味での緊張はありますけれども、「緊張」というよりはむしろ、「助けてやるぜという意気込みと愉しさ」、そんな気配がただひたすらに漂っているのでございます。(もちろん愉しいという表現は不適切かもしれません。これに関しましては、BSプレミアム「忘れられない患者 スーパードクター 心の交流」をご参照下さい。外科医はもともと、何かを表現するのに言葉を何パターンも考えきれない人種なのです。すみません。)
さて、『誰』が言ったのか忘れてしまいましたが、
「手術室でかける音楽は、はいチーズという掛け声に合わせて一緒に写真を撮るようなもの」
つまり、
「手術室の音楽は、敢えて聞くのでもない、楽しむのでもない、リズムを取るのでもない、ただ一緒に流れるための呼び水」
ですから、
「緊張とかリラックスとか効率とか、そんなモンは後々考えればいいこと、そんなに気張らずに流すだけでいいんです」
例えて言えば、
「それは、肺胞に酸素を無理にぶち込むのではなく、ナチュラルにそっと二酸化炭素を吐き出させる感じ」
結局は、
「技術を活かすやり方を覚えたり、あえて技術を使わないやり方を覚えたり、手術の豊かさをより豊かにするために傍にいてくれるだけの必須の無駄的存在…、というか、執刀医を「木に登らせる」だけかも…、それが手術室で流す音楽の効能」
ついでに、
「現場って嫌なことって沢山ありますよね。そんな時は、音楽の“威”を借りまくればいいんです。これって、どうも、“虎さん”のより大きいらしいですよ。もちろん解決にはなりませんけど、助けにはなるんです。」
そんな「オモろいことをノタマう」、その「忘れてしまった人」の手術室というものは、完全な理解は困難ではございますが、何だか音楽を上手く利用してそうな、そうそして、何かが微妙に、いや思いのほか確かに面白すぎると…、そんな風にユルリと洗脳されていくのでありました。
心臓手術は、チーム医療の最たるものと言われています。
執刀医は何よりもまず、まとめ役に徹さねばなりません。周りをよく見るのです。
しかし一方で、繊細な手技を行う時には、今度は一匹狼に…徹さねばなりません。手元をよく見るのです。
このように随分と忙しない執刀医…、だからこそ、「緊張感・リラックス・パフォーマンス」を十分に考慮した、一人オン・ステージ用の音楽を求めるのかもしれません。執刀医は、周りより一枚以上は「うわ手」と認められなければならないのです。
しかしながら、その「忘れてしまった人」が言う「手術音楽の効果」とは、そんな「シンドいもんじゃごザンせん」、何だかそんな気がするのでありました。
何となく思いますに…、それは、
手術を上手く進行させるべく、手術が始まる前に自分たちスタッフなりの環境を整えておく、そのために音楽を軽く流し始める…、まずはそんな気がいたします…。
そして手術が始まれば、今度は執刀医の焦燥感を抑えるためだけに音楽を利用していく…、何だかそんな気もするのです。
つまり、その「忘れてしまった人」の手術室では、
これもまた何となく思いますに…、
手術の流れという時間軸の調整のためにだけ、音楽を「共通言語」として流している、のではないかと…、
そして、執刀医の「一匹狼が感じる、置いてけぼり感」を緩和するために流している、のではないかと…、
何だかそんな気がしてしまうのです。
しかし一方で、この「置いてけぼり感」というものは…、実はむしろ、周りのスタッフの方がより強く感じることなのであります。何故ならば、執刀医が一匹狼オン・ステージの間は、周りはその一匹狼を見ているだけなのですから…。従いまして、執刀医は、そんな周囲の「置いてけぼり視線」を少しだけ気にかけてあげること、大切かと思います。(まあそこが、執刀医の執刀医たるギャグセンスを発揮する大事なポイントでもあるのです)
さて、このように、音楽によって「お互いの緩和ができる手術室」…、
上手く言えませんが、「人懐っこい手術室」とでもいいましょうか…、それが「忘れてしまった人」の言う、手術音楽の効能かもしれません。そんな手術室での、執刀医とスタッフの間の「毅然としたツッコミ愛」は、何だか不思議と眼に見えるような気もいたします。
さてさて、いつもの妄想がじんわりクッキリと、この「第七章」にも充満してまいりました。
確かにそう、いや違う、でもそう…、
確かにそうですね。手術室の音楽は、手術室を総合的に緩和する「もう一人のスタッフ」です。
音楽を流しながら手術する執刀医、皆からツッコまれながらも緩和されていく執刀医、そうすると執刀医は、例え一匹狼オン・ステージ状態になっても、決して寂しくないのです。
手術音楽の最大効能とは、これ即ち、「寂しさが和らぐこと」…、手術がチーム医療と言われる所以であります。
続きます。
これにより執刀医は、一匹狼としての疎外感の中でしか存在意義を自覚できなかった自分の感性が、「誰かと響き合うことができるのだ」と、安堵できるようになるのです。もちろんそれは、与えることもあれば貰うこともあるといった、執刀医とスタッフの間のエネルギーの取り合いではありません。むしろそれは、飲み友だちになることは無理でも、少なくとも仕事仲間だけにはなれるという、少しだけ悲しくも現実味をおびた感慨に近いものと表現すべきでありましょう。これこそが、手術室という密室で働くチームへの音楽のお役目かもしれない、などと、またまた焦がれるような妄想が膨らむのです。
音楽には、愛を感じさせる何かがあるのでしょうか。いやそれとも、愛は感じずとも、音楽から愛は貰えるのでしょうか。もちろん愛を曲解してはいけません。愛に関する約束事を大手を振って信じられるほどこの世は甘くありませんし、もう既に若くもないのです。しかし、音楽が持つエネルギーを繋がらせておいて、お互いに至福感を感じ、それから愛らしき何かを感じる、この流れはまさしく、音楽だけが作ることのできる『手術本来の流れ』でありましょう。
ですから、たまに流れる、清志郎さんの「スローバラード」が心地良いのです。