Doctor Blog

コラム

オノマトペ その五

「ちゅんちゅん」から引きずり出された小生の幼き頃の記憶、喜怒哀楽だけでなく、人に言えない羞恥心とのセット商品だからこそ長期に保存されたもの、そこには多くの反省と心残りも一緒に乗っかっているのです。長期記憶とはこういう雑多な収蔵庫であると想像しています。
ですから手術中の「個人と皆」がそれぞれに、そんなセット商品を、何時でも“どこでもドア”的に取り出すことができるのならば、目の前の問題どもを楽にクリアできるのではないか…、そんな気がして参ります。
そうであればさてもさても…、その記憶の扉を易々と開けるに必要なものは果たして何なのか?、それは恐らく、あの奈良で頂いた“阿吽の呼吸”の極意ともいえる以心伝心ツール、またの名をオノマトペというのではないかと、またまたそんな気もしてしまうのです。
話が飛びますが、本日はオリンピックの開会式、このブログの公開日には既に男子4×100mリレーは終わっているのでしょうが、彼らサムライたちは今回、あの銀メダルからどのように進化させたオノマトペで戦ったのでしょうか。(う~ん…バトンが…、無念でした。)

さてでもでも、時間軸オマトペというもの、同じ手術であっても相反する場合があります。
例えば、ある手技は“ジックリジワジワユルリとバッチシ”、別の手技は“アッサリサッサピュンピュンとバッチシ”などと、結果シノニムの過程アントニムということはよくあることです。しかし、どちらも流れとしては必須のことです。ですから、手術に参加する「個人と皆」はまず第一に、両者ともホッコリとしながら優しくシンクロし合うことが大事です。
ですが、ここでまたまたお決まりの一妄想が湧いてまいります。このように対義的オノマトペがあるということは、全国の手術室にもそれぞれ固有のオノマトペがあるということ、そしてもしそうであれば、それぞれの若手の成長度というものは、それぞれの手術室毎に(それぞれのオノマトペ毎に)異なっていくということ、即ちオノマトペによっては若手の成長が規定されてしまう危険性があるということ、ついつい考えてしまうのです。従いまして上司たるもの、少なくともこのことだけは常に念頭に置いて、オノマトペ管理に努めなければなりません。

さあてさあて、理想の手術オノマトペとは何か、なかなか困難な課題ではございます。中には、スポーツの分野と同様にかなり否定的な意見もあるのかもしれません。しかしながら手術には、誰もが考えられる、そして断定することのできる普遍的な究極の目標というものがあります。ということは悪く言えば、何一つ手術を知らない余所者でも口が出せるということ、逆に良く言えば、誰もがその目標に向かって努力することができるということ、つまり…、要するに、病院内すべての従事者が手術オノマトペを考えることができるのです。
いつも通りわがままに理想を申せば、あるオノマトペを用いることで、「働く人間の間の距離が縮むような感覚、皆が須らく同じ知性を獲得したような確信、そして対義語であっても互いに補い合うことのできる愛情」、そんな感性が溢れ出るような、小児心臓外科医に都合のよい手術オノマトペがあればいいなといつも思っております。

でもまあ、そんな七面倒くさいことはともかく、こういう時代だから望むべくは、“ちょっと照れるな”と思うくらいのオノマトペも必要というものでして、口ほどに物を言うくらいのつぶらな瞳で喋ることもこれまた一興です。「時々は無駄なオノマトペがあるのも人の世の常、時々は大事にすべきオノマトペがあるのも人の世の習い」なのですから、まずはユルユルといこうではありませんか。
(一つだけ同年代の皆さまに内密にお伝えしておきます。やや高齢の外科医が作る仏教系の漢語オノマトペ、昨今の仏教女子から大層な人気が集中しているとのことでした。)

最終稿へと続きます。

※ふる里で見たダブルレインボー、思わず“阿くん”の口となりました。