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コラム

阿吽の呼吸 三の巻

お待たせいたしました。小田原評定的な妄想、発動します。

「阿吽の呼吸」とは、心の底から心地良いと感じる“記憶のシンクロ”の中でも、すべての人が須らく、それこそ“最も心地良いもの”だと考えています。
ただ、何故ゆえに心地良い(酔い)のか、それは、単に“聴視触”の記憶がビッタリと同調するだけではないのです。そこに流れる流麗な流れといいますか、個々人の声が何故か自分の後に付いてくる感じといいますか、もっと概念的に言えば、“もうこんな時間?ではなく、まだこんな時間?”という錯覚、つまり、阿吽には、お互いの思いやりとも言える、あたかも何だか得したなという時間感覚が介在する、「時間的記憶のシンクロがあってこそ“阿吽”となる」のです。ですから阿吽とは、同じ空間に居ることに加えて、同じ時間軸で同じことに取り組んだもの同士のみに与えられる特恵なのかもしれません。

阿吽的な時間の同調とは、手術が滞りなく終わったという証拠であり、患者さんも自分たちも時間的に低侵襲であった証拠、そして、術学や人文学だけではなく、若手にそれなりの阿吽教育ができたという証拠、さらに、現代の働き方やハラス改革に最も適合した唯一の対策である証拠…、それこそこんなにも色々と自慢できるものなんです。
チームの調和というものがお互いの関係を消化することで生まれるものならば、阿吽は、それに加えて、お互いの時間軸をそれぞれに上手く消化、そして吸収することから生まれるものなのでしょう。

さて読者の皆さん、阿吽の呼吸、段々とお約束の迷走路へと突入しております。
これは外科学に限らないことでありますが、阿吽のためにと称した打ち合わせ会議(コミュニケーション委員会とでも言うのでしょうか…)、何時でも何処でも誰とでも開催が可能です。でもそういった会議では何故か不思議と殆どに、阿吽的に打ち解け合うことがなかなかできないのです。少なくとも阿吽というものは、論敵を説得、もしくは論破するようなものではないと思います。(もちろん、阿吽未経験人たちの議論も、傍から聞いていますと、それはそれで心の底から楽しめるものではありますが…)
それでももし、何としてでも阿吽を“ものにしたい”と考えるのであれば、必ず押さえておくべきことがあります。
まず上司たるもの、良いも悪いも“粋も甘い”も受け入れる覚悟は無論のこと、ある程度のシンクロができるまでは人任せにせず、全て自分の足で動くということです。
そして、次に若手たるもの、レベルの高い上司を選ぶことはもちろんですが、上司と共同生活をするがごとく、若干幅広い空間と若干長い時間軸を共有すること、経験上これはやはり大事なことであります。

そしてさらに、もう一妄想しときましょう…。外科医の生涯とは、いろんな意味において、強迫観念との戦いと言えるのかもしれません。でも考えてみますと、これは当然のことですし、阿吽の獲得というよりはむしろ、外科医の成長に必要なことです。
しかしながら、全くもって真逆の考えではありますが、もし、そのような戦いから逃避するために“阿吽というもの”を利用するのであれば、つまり易に流れるためだけの“議論的阿吽”なのであれば、阿吽の持つ意義は絶滅危惧的に皆無となります。そして徐々にではありますが、阿吽というものは流行らなくなっていきそうです。そのうちに、ロートルが懐かしむ旧億の手術室にあったあの阿吽が消滅することに何の惜しみも無いのかと、強く憂慮する時代がくるのではないかと懸念してしまいます。
話が飛びますが、先日のBSテレビです。ある若者が言ったこと、「昭和の歌はあまりにもストレート過ぎて共感できない、重すぎる」と…。その若者、その理由として、スマホ時代に始まる意思疎通手段の変容を上げておりましたが、その意味は果たして、阿吽がまだまだ成長過程にあるということ…?それとも、もう完全に消滅した…?

阿吽の呼吸、何処かで申したようにそれはある意味、手術家にとっては最高の褒め言葉であります。でももちろん、阿吽は強制ではなく、強い同調から現れ出ることで初めて真に高い価値を持つもの、ですから、阿吽の発露とは、“無私の心”であると信じたいのです。

さてさて、次回の最終話は例の奴の登場です。“結び”と題しての全三話、どうぞご期待ください。

題名「夏始まりの真っ昼間、あるいは飛田給駅前広場」
※夏至の日、真南の太陽です。残念ですが少しだけ隠れてしまいました。