Doctor Blog

コラム

阿吽の呼吸 二の巻

さて“阿吽の呼吸”ですが、最近少しだけ舌先三寸の閾値が上がりまして、ここからは、長編大作ブログに漂う懲りない妄想に逆うべく、あくまでも外科学に限って真面目にお話を進めます。

阿吽の呼吸とは、いわば「記憶のシンクロ(同調)」であります(あ~あ、ま~た記憶の話かと思われました?実は小生も少々飽きています)。
“微妙な心が通い合う”、お互いもしくは複数人が同時かつ受動的にそう思えること、日本人固有の美徳です。しかし勿論、その質についてはあくまでも第三者が判断するもの、実務者自身がそう吹聴するだけでは、ただの“自意識過剰的青椒肉絲風誇大妄想家”と言われてもしょうがありません。

さて、そのホンマモンの阿吽の呼吸は、どうやって身についていくのでしょう。
阿吽は、“相手に強いることでは生まれない”、また、“そもそも強いるものでも無い”というご意見があります。納得できるお言葉です。…がしかし、果たして本当にそうなのでしょうか。悟りを開いた者同士ならまだしも、我々凡人にはとてもとても…。
その凡人外科医が思うに…、その底辺には、“動きを読む”とか“空気を読む”といった、むしろ“能動性もしくは積極性というお互いのやや強い含意があってこそ生誕に至る”、と考えた方が「当たり前くね?」と、ついついまたまた外科医らしく、安易な道を模索してしまうのです。
そしてその内にもし、もしもですが、強いる心や意識する心という威嚇行動が消滅し、それでもなお「アンタら阿吽だね」と、妙齢の方々から2~3回ほどお褒めを頂くことになれば、その時にこそ初めて、新たな伝統や伝説が生まれる、ホンマもんに近い阿吽となるのではないでしょうか。
東大寺の阿吽の仁王さんたち、1200年以上も対峙されております。これは恐縮の顰蹙ものですが恐らく、おそらくは…、阿吽と言われるまでにはお互いに何かしら、強いる時期もあったのではないかとお察し申し上げるのです(…阿さま、吽さま、申し訳ございません)

さてさて最近、何かと喧騒かつ情熱ある会議の席では、コミュニケーションとかマニュアルというお言葉s、それこそ5分おきに飛び交い合うように見受けられます。とても大事なことではあります。でもしかしもしかして、それらのお言葉s達成のためにとんでもない熱量と時間を要するのであれば、その議論ってあまり意味がないと思いません?何だか、「アナタ外科医なのに不思議と手術が上手いね」って世辞られてるような気がしてしまいます(意味合ってます??)。
少なくとも手術室で過ごす一生、揺るぎない根気をずっと維持しながら“意識的に阿吽する”なんて、とてもできないと思うのです。

でもまあ、能動性なんて似合わないことを言うからややこしくなるわけで、もっと外科医らしく明るく安々易々軽々に……。
「そんなものガッツリ考えなくてもいいんじゃない?皆けっこう楽にやってるよ」
そうなのです、そう感じているアナタ、それが阿吽です。阿吽は“もともと言わなくて良いことを言わないだけ”、ですから、言わずに越したことがない程に、そして妙ちくりんなブログに上げるに越したことがない程に、ただ心地良い空気が流れるだけなのです。
そしてもちろん、その心地良い理由の奥底には、長年の間に蓄積した無意識かつ自然な“何か”が多分にあるのでしょうし、“何かしらの伝統がありますね”などと格付けランクアップされたりもするのでしょう。
でももし、もしもできれば、その“何か”の一部分は、決して八方美人ではない若手の真剣さと、上司の太っ腹な度量から作られたものであって欲しいと願います。つまり、「若手ながらの能動的努力の結果生まれた“無意識の記憶”が、上司の溜まりに溜まった何らかの大人っぽい記憶に同調するようになっていく…」、実を言いますとこの過程こそが、小生が最も大事にしたい“阿吽のキッカケ”でもあるのです。

さてそうしますと逆に、阿吽が育たない理由、それは若手の努力が足りないのか、上司が子供っぽいのか、それとも他から邪魔が入るのか…、でもそういったことは茶飯事でございますよね。結局阿吽というものは、お互いそれぞれの記憶のシンクロ過程を、様子を見ながら臨床的に診ていくしかない代物なのでしょう。
でもできますれば…、そういうディスシンクロ(不同調)の時にこそ、無節操にしゃしゃり出て来るようなある意味疎ましい存在の輩って是非欲しいと思うのです。そうつまり、ホンマモンの阿吽への変容に必要不可欠な、その前段階と言うべき“プレホンマ(エセ)阿吽”の機微をよく知っている存在といいますか、もしくは、お互いに強いるべきものをそれこそ上手いこと強いてあげることができる存在といいますか…。
極めて概念的に説明しますが、エセ阿吽とは、ホンマ阿吽への近道迂回路でありますので、初めにニセ阿吽を目指すことも当然アリなのです。つまり例えば、合法的に羽目を外そうとする時には、外す側の連中の間にまず、傍目的に迷惑な阿吽が必要となります、しかし加えて一方、外す側と外される風紀委員的な人達との間にも、よそ行き顔の法規的なエセ阿吽が別個に要るということ…(??すみません、雰囲気だけ分かって頂ければと思います…、自分でも段々と意味不明になりました)。

ぐだぐだ申しましたが、一言で言うならば、阿吽の完成には、誰かのおせっかい的な思いやりが“必須の無駄”として必要ということです。(もちろんそれ以前に大事なこと、阿吽を持つべきではない環境も当然ありますから、阿吽の必要不必要の判断だけは厳しく行わなければなりません…。少なくとも阿吽は、仲が悪ければ決して生まれませんし、仲が良くても生まれないものは生まれませんし、生まれたとしてもはた迷惑なこともあるのです)

さてさて、何だカンダのそんな理由で、「阿吽を言語化しなさい」、「具体的方法を教示下さい」なんていうご指摘には、「とても無理くね?」という答えになってしまうのです。
阿吽の呼吸、一言で言い表すような胸のすく答弁はできそうもありません。でもそれでも次回、そろりそろ~り…阿吽的な妄想を妄爆したいと思っています。

まだまだ続きます。

※ふる里の、伝説多き神社の滝、大和武尊の御歌にある“矢筈の滝”です。