Doctor Blog

コラム

外科医の浪花節 その六

さて皆さん、特に昭和という時代の楽曲、節を付けずに歌詞だけ眺めてみますと、何とまあ、あまりにもおおっぴらなハラス表現が多いことに気づきます。その是非については諸説紛紛でしょうが、少なくとも今の時代、人前での無節操なご披露は即アウト、一発退場です。
しかしそうは申しましても、それぞれの時代ごとに国民の心を掴んだのであります。その記憶は時間軸の流れに沿って悠々と佇み、そして時々に沈み落ち…、それでも時間軸の一点とシンクロすることで、そのベクトルを多元的に増やしながら再び浮かび上がってくるのです。
流行り当時には何の興味も湧かなかったそんな歌詞が何故か心に響いてくる…、実に不可思議なことです。それだけ重みというものがあるのでしょうか?(この疑問については、ただ単に年取っただけという返答が寂しく返ってきました。そしてもっと単純に、福岡のおじちゃんの影響であるとも断言されました…、芸と手術のためなら小倉太鼓も叩くのです)

記憶とは…、ある過去のある時点、その心の動きを書き留めたものであります。しかし、記憶はある時だけに存在するものではありません。ある時のその前、また、ある時の直後から現在まで、さらには時空を超えた他人からの刷り込みも含めて、ある時点を中心とした幅のある時間的堆積物なのであります。しかも、抜け出すも留まるも自由自在です。
さて、その時間というものは、どのような環境であったとしてもすべからく、もちろん全ての存在において、過去から現在、そして未来へと絶対的に一様に流れるものです。
しかし一方で、時間に付随する記憶は、その軸に沿って直線的に流れるのではなく、過去から現在までの経緯や未来への希望という時間の感覚を膨らませて、それぞれに育ちます。この観点において、それらの時間を組み入れた記憶は、個々それぞれの体内時計へと変容していくのではないかと推測します。もしそうであれば、時間の流れというものは容易に一様でなくなります。光速などという特殊な環境は必要ないのです。このことが、“時間を使う、こなす、作る”などといった、人それぞれに異なる新たな感性の発露でもあるのでしょう。
本ブログの前に、「記憶とシンクロ」という棒にも箸にも掛からないお話しをさせて頂きました。“記憶が互いにシンクロする意味”に関する妄想と記憶していますが、シンクロとは、音や映像だけでなく、体内時計の時間軸が共有されるということ、つまり、たった今のこの瞬間に、仲間たちと同時の時間記憶が加わることになるのです。このことは、お話しさせて頂いたように、外科学の世界に生きるための伝説の“浪花節”、極めて大きな意味があると思います。

このような相対的もしくは概念的ともいえる…、いやいやそんな高尚なものではございません。単に馬鹿馬鹿しく詮方無い呪術的妄想…、お神酒が多少切れたせいもございましょうが、まあ要は、こんなにウダウダと小難しいことを言わずとも、良好にシンクロするチームとは、良くも悪くも単に時間感覚の似たもの通しの集まりということになります。時間的に心地良いか否かというだけで、安易かつ宿命的に決まるのです。
この日本を取り巻く医療環境の中で、外科学を愛し続けることは相当困難であります。それでも外科を続けることのできる若者は、もしかしたら外科の生活、つまり外科に流れるべき特有の時間軸にシンクロするだけのことかもしれません。分かりやすく言えば、“病院待合室での徒然に、多少の自己犠牲のもとイライラせずに一句読む”、そのようなものでしょうか(概念的ですみません…)。でもこれもまた、一つの才能であります。もしそうであれば、こちら側としましても、榊原にしか存在しない秘蔵の暗黙知時間、内緒でちょっとだけ見せてあげようかという気持ちにもなるのです。

一週前のブログ以来、長老たちがしゃしゃり出てくることはありません。奴らにしたら若者なんて、たかが青春真っ只中の単なる青少年です。そんな時代はとうの昔に経験しているからこそ、あれこれ宣うことは、ぶっちゃけお目出度いハラスish…、爺いたちもそのことは充分に自覚しているのでしょう。しかし、今では教科書にも載っていない、泣きたくなるくらい素敵なことを体験している分、若者たちに無視されても、それらを重要文化財的に喋り続けること、寂寥感を持ちながらもやぶさか(藪)ではないのでしょうし、そういった意味で、やはり無視できない、憎めない、案外賢い、でも実に存外にたちの悪い老人たちなのであります。それにしてもまあ、単なる酔っぱらいの言いたい放題インタビュー、「もちろん反省する必要は無い」、とのことです。

ところで、昨夜の夢占いでは、「長老たちと若者たち、スーパームーン皆既月食のように、いずれ淡々とシンクロすることであろう」との託宣が下りました。いずれ、両者一斉に呼び出しをかけることになるでしょう。ただ当然のごとく、長老らは携帯などという洒落たものは持っていませんので、ポケベルでの呼び出しになりそうです。どうにもこうにも、面倒くさい人種ではあります。
しかし、もし、もしもですよ、一同に介する機会がもし実現するとすれば、そこはまあ驚喜の限りでありますし、不何かが起こることを不真面目にも期待してしまいます。ひとの迷惑顧みず、“ハラス昭和の浪花節”をがなり立てる、最長老の姿が少しだけ頭をよぎります…。

続きます。

スーパームーンの皆既月食、残念ですがぼんやりとしか見えませんでした。この写真は、拙宅から見上げたその前夜のお月さまです。“月待てば…”という一句が心に跳ねました